生きることと死ぬこと


今日からOHANAは通常通りのサロン営業でした。

藤沢に出張中に叔父が亡くなり、帰ってきてからの数日はお別れ式がありました。
小学校の先生だった叔父は、いつも穏やかなお話をされる方でした。小さい時はいとこたちと一緒に私や妹も夏休み、冬休みになるとプールやスキーに連れていってくれたり、キノコ狩りや山菜とりに一緒にいったり、自由研究を手伝ってくれたり、たくさんの思い出があったことを一気に思い出しました。心のなかに思い出があるほど、悲しみも深くなるものだと思います。父を亡くされたいとこたちが可哀想でした。これから私も自分の親を見送る日もくるんだろうと思うと、とても悲しい気持ちになります。

抜け殻になった身体や、焼かれたお骨をみたときは、数日まえまで本当に動いて、生きていらっしゃったのだろうか…というくらい、人の命の儚さを感じるものです。小さな3才のいとこの子供をずっとだっこしている時に「じいじ、がいこちゅになっちゃった。こわい」とつぶやきながら幼いながら死を受けとめているようでした。みんな、死んだらがいこちゅになっちゃうの?赤ちゃんも?と聞かれたのでそうだよ、みんなおんなじだよ。と言ったら「そっか…」と言っていた。「これからは心のなかでいきているの?壁のなかにも、葉っぱのなかにもじいじは生きてるの?」と聞かれたので「そうだよ。いつも○○ちゃんのいるところには、じいじはみてくれているんだよ」と言ったら「そっか…」とつぶやいていました。

藤沢では私のフラの先生である、ヒューエット先生のレッスンを受けてきましたが、そこではハワイの人たちの死の受け止め方やお葬式の話をしてくれました。ハワイアンの考えでは、死は新しい世界への旅立ちであり、神様と同じ世界にいくこと、永遠の命を得ることなのだから祝福なんだと。悲しい気持ちはもちろんあるが、死はネガティブなものではないということ。
その人のことを忘れないように、詩を書いたり、歌をつくったり、フラを踊るとヒューエット先生は言っていました。私はそのような受け止めかたはとても共感できます。

人が亡くなることはとても残念で悲しいことです。近親者であれば、本当に悲しみは深いもの。
突然であればあるほど、ショックは大きいものです。
命はとても強くて、儚い。
悔いなく前向きに生きることを日々積み重ねようと思うと同時に、死の世界への心がまえも年を重ねると考えることが増えてきました。

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